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唐利国 北京師範大学講師
「真を求める」のは、学術研究の基本的原則である。「真」を求める上で「新を求める」のは、創造力を現すことである。4名の報告者の共通した特徴は、私たちに新しい思考を提示してくださったことである。それぞれ異なる角度から、「冷戦とポスト冷戦の東アジアの地域交流」問題を議論した。内容は教育、経済と国際関係等の分野に及んだ。
小林先生は主に戦後日本の歴史教育に存在した問題を分析した。鄭先生は日中交流を中心に、歴史教育分野における東アジア諸国の交流状況について話した。一般的に、「日本の歴史教科書問題」を言うと、主に近代日本の侵略行為を否定する右翼的な歴史教科書に注目が集まっているが、小林先生の報告はこの類の「三つの教科書問題」を語った上、「もう一つの教科書問題」に重点を置いて分析した。すなわち家永三郎の『新日本史』の「教科書検定裁判」を取り上げ、家永三郎など進歩的歴史学者の歴史学研究と歴史教育における貢献を多角評価した。鄭先生の報告は歴史教育問題に関する私たちの研究視野を開き、交流形式の問題を分析して、両国の交流における成果と不足の点をよりよく解明した。
歴史教育は確かに複雑かつ重要な問題であり、特にかつて日本に侵略された東アジア諸国にとって、日本人の歴史認識は極めて敏感な話題である。冷戦時代のイデオロギー対立は、歴史認識問題に関する双方のより深い交流を制限した。冷戦の終結は、東アジア諸国が歴史認識問題における「求同存異」(共通点を求め、異なる点を互いに尊重すること)を図るための良好な条件を作り出した。二方の発言を拝聴して、正しい歴史教育が東アジア諸国人民の友好関係を作るのに重大な意義があることを、私たちは改めて考えさせられた。
冷戦の緩和から終結への過程は、まさに東アジア国際関係の中心問題が次第にイデオロギーの分野から経済分野への転換の過程である。両陣営が互いに対抗するあり方も、次第に幾つかの主役が競争しながら協力するという複雑的なあり方へ転換した。李先生は主に日中経済協力が冷戦後における発展状況を論じた。一方、小澤先生は総合的に、東アジア国際関係の動向を振り返った。二方の分析視点はそれぞれ違っているとはいえ、東アジア各国が国際経済、国際政治等の分野において全面協力の環境を作ることは、如何に困難でかつ意義重大な事であるかを、改めて私たちに認識させた。
日本と中国はともに東アジア地域の主要大国である。文化教育、政治経済等の分野における両国の衝突と交流の歴史的過程を振り返ることは、東アジアの未来をよりよく展望するために有益である。
19世紀半ば以来、中日両国は相次いで「西方の衝撃」を受け、ほぼ同時期に近代社会へ向かう困難な転換を始めた。両国は極めて類似した歴史的出発点を持ちながら、それぞれ完全に異なる歴史発展の道を歩んだ。日清戦争における日本の勝ち、中国の負けをきっかけに、日本は近代化の成功者と見なされる一方、中国は失敗者または落第者と見なされるようになった。いわゆる中日交流は近代において、実際上主に日本から中国への一方的な流れであった。戊戌変法は、日本の明治維新をモデルとした政治改革運動であった。
第二次世界大戦後、日本はとても早く経済の復興と高度成長を実現した。「日本はなぜ成功したか」は再び注目される話題となった。特に1960年代以降、東西冷戦イデオロギーの対抗という背景の下で、アメリカの東洋史研究者であるエドウィン·オールドファザー·ライシャワー等の提唱により、「近代化論」が日本研究に広く応用さした。戦前に比べると、近代化比較の主な基準は軍事の成功から経済の成功への転換した。「中国は失敗、日本は成功」という観点が依然として主流であった。日本は近代アジアで初めの、しかも唯一の近代化に成功した国である、という事実は、研究者の共通した思考の前提となった。
しかし、今日に至って、この仮説前提は果たして当初のように自明のことであるのか。
実際に、日本の敗戦を契機に、一部の学者はすでに「中国は失敗、日本は成功」という従来の考え方について疑問を持った。例えば、新中国の誕生を背景に、丸山真男は1952年に次のように述べた。自己を含む戦前の日本人学者が一般的に、「中国の停滞性と日本の相対的進歩性」を信じてきた。しかし、「いわゆる『近代』を経験した日本と、このような成功経験を持っていない中国とは、大衆レベルの近代化という点から見ると、今日逆転的な対比が起こっている。」むろん、もしある程度の経済発展がなければ、いわゆる近代化も論外である。一定の発展を示してこそ初めて、現代化の発展モデルとして認められるのである。新中国の成立初期における経済発展の成果および政治、社会等の進歩を目の当たりにして、多くの学者が中国の「成功」問題を真剣に考え始めた。中日の比較については、「中国は成功、日本は失敗」とい考え方も生まれた。
このような中日比較は、ある程度、主に軍事的成敗の刺激を受けたものである。つまり、中国は抗日戦争の勝利を収め、国家の独立を実現し、さらに国連常任理事国の一つとなった。一方、日本はアメリカ軍に占領され、かつて一度国家の独立を失った。しかし、日本経済の復興と発展につれ、このような疑問は次第に、「近代化論」に基づいた日本歴史への楽観主義的な評価に取って代わられた。近代日本軍国主義、ファシズムが政治および道德上の批判を免れないにもかかわらず、経済や技術の指標を重視する近代化理論に支えられて、日本はアジアで最も魅力のある成功の手本であると一般的に見なされている。そのうえ、戦後日本の民主、平和、裕富の国家イメージが、さらに日本の近代化成功者としての印象を強めた。
これとは対照的に、新中国は次第に様々な経済発展上の困難に遭い、1980年代になってから改革開放を実行し、「経済建設を中心とする」政策へ転換した。日本は再び中国の学ぶ対象となった。1980年代初め、「近代化論」は中国の学術界で次第に広まり、中日の比較研究は広く展開された。その中で、一つ重要な動機は日本の成功からその経験を学ぼうとすることである。そもそも反共イデオロギーとして生まれた「近代化論」は、奇妙にも社会主義中国が日本等の先進資本主義国家を見習う理論的基礎となった。